あたらしい鍵

 日本橋の榛原に頼んでいた住所印と名前印が出来上がったので、引き取りに向かった。住所印とは言うものの、webサイトのアドレスやTwitterのアカウント、メールアドレスを記したwebアドレス印だ。セピア色のインクを付けて、名刺大の和紙に押したら、まるで活版印刷のようなレトロな風合いになって、嬉しくなった。これを、名刺として使っていこう。


 十数年もの間、名刺をどうするか、悩み続けていた。演奏家らしく、顔写真のついた華やかなデザインを薦められたこともあったが、どうしてもそれを選ぶ気持ちにはなれなかった。それよりも、活版印刷であっさりとまとめられたシンプルな名刺に魅力を感じた。しかし、あれこれと調べてみても、どれも決め手に欠けていた。


 私が名刺に求めていたのは、〈温かみ〉だった。手に取った方が、思わずほっとするような名刺。けれど、どうしたって名刺には、きちんと感が求められる。私が求めている条件とは、反対のベクトルのものだ。


 そんな中、ふと、榛原で昔つくった名前印のことを思い出した。手紙やハガキに押そうと、お願いして作ってもらった名前印。ひさごの中に「沙優」と書かれただけの、あっさりとしたハンコだが、気に入ってずっと使い続けてきた。


 確か、名前印だけでなくて、住所印もあったよな……と思い至って、久しぶりに足を運んだ。尋ねてみると、二枚のパンフレットを渡された。二枚目のパンフレットを眺めると、藤色のインクで押された、すっくと立つ二本の木が描かれた住所印に心惹かれた。美術家・多田文昌氏がデザインしたという。


 帰宅してから、多田氏が手掛けた44種類の住所印のデザインを見ながら思い悩んだ。でも、迷った時には第一印象に戻るというのが信条なので、パンフレットの表紙と同じデザインで作ることに決めた。住所印と一緒に、同じように木がデザインされた名前印も、新しくお願いした。


 出来上がった住所印は、やはり多田氏がデザインされた箱の中に、丁寧に収められていた。箱には鍵穴が、そして住所印・名前印の天然木の部分には鍵が描かれている。新たな未来を開く鍵になりますように……という多田氏の願いが込められているのかもしれない。そう気付くと、心の奥がほんのりと温かくなった。そして、作ってくださった職人さん、大事に取り置きしてくださっていた榛原さんのお心遣いにも、感謝の念を新たにした。


 誰かの願いが込められたものは、誰かの心を温め、新たな現実を創造する種となる。それは、みえない祈りが形になったものなのかもしれない。深い感謝と共に、わたしはこの住所印を和紙に押していこう。新しく出会う誰かに、みえない祈りを届けていけるように、静かに願いながら。



Wisteria Field

まあるく、生きる。 まあるく、暮らす。

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